18, Feb, 2

カメラと自転車

 

 

京都というのは、いろんな縁がつながっている街である。
知り合いの知り合いは、知り合いだったというのはざらだし、自分の知り合いとつれの知り合いが知り合いだったなんてことはよくある。だいぶ離れていているつながりも辿るとすぐに誰かとつながっている。嬉しくもあり、少々怖いとも感じる時もある。ライカ京都店を訪れることになったのも、そんな色々の不思議な縁によるものだった。

 

ライカ
さほど、カメラに造詣が深い訳ではないが、ブレッソンをはじめ多くのカメラマン、写真家が絶大なる信頼を置いていた道具(カメラ)をつくっていることは、ものづくりに関わる者としてもちろん知っている。

ライカのカメラは、道具としての使い勝手や堅牢性はもちろんのこと、カメラの核となるファインダーレンズといった光学部分はその高い技術力によって作り上げられている。特にレンジファインダーは、あまりにも完成度が高過ぎて他社がその開発をあきらめ、“一眼レフ”をつくる事になったことは門外漢の私ですら耳にする史実である。

 

 

そんな光学技術の粋を集めてつくられたライカのカメラ、私たちの羨望の的ではあったものの、フィルムカメラの時代の終焉と共に、その輝きを失い始めているのではと気にはなっていた。デジタル基盤による制御が主流のこの時代では得意の機械じかけの技術ではもはや“新しい”ものづくりは厳しくなり、その存在は過去のノスタルジアに浸るためだけのアイコン化してしまっているのではと薄ら薄ら考えてしまっていた。

 

そんな考えを過らせながら店に入ると、いつの間にか博物館の歴史的収蔵物を観覧するような目で、その一点一点を眺めてしまっていた。

 

 

ふと店の隅に目をやると、三脚に取り付けられたフィールドスコープがある事に気がついた。
そして、「ちょっと覗いてみます?」という店長の誘い。
促されるままにスコープを覗きこむと、おもわず顔を上げて店長の顔を見返した。
「すごいでしょ?」と自慢げに尋ねてくる店長に私は躊躇することなく大きくうなずいた。
それは、想像もしていなかった。目で見る以上のものが見える。
この一瞬の体験が、ライカが過去のものであるという意識をあっと言う間に払拭した。

こうなると、ものづくりに携わる者として、その仕組みを知りたくていてもたってもいられなくなる。
店長に強請るようにライカについての教えを請うと、店長は快くライカの歴史からブランドストーリーや製品について丁寧にレクチャーしてくれた。多くは説明的な話ではあったが、その中に、作り手の私たちにとって大変興味深く感じる部分があった。
それはライカのものづくりの思想である。
直接的な言葉では語られはしなかったが、端々にライカのものづくりの姿勢が随所に現れていた。
「なぜライカがこのようなものづくりをしているのか。」
ライカのものづくりの全ては、カメラが“この瞬間”を“切り取る装置/道具”であるという考えに則っていた。

 

どのようにすればこの瞬間を可能な限り忠実に、そのまま、切り取ることができるのか。
それは、カメラを小型化することから始まった。
カメラの生まれた1826年からライカが小型カメラを生み出す1913年までの87年間、カメラといえば大型で据え置きにて撮影するしかなかった。それがライカがカメラを小型化し、「日常を切りとる」 ものにした。カメラが人と行動を共にすることとなり、カメラは私たちの日々を記録する道具となったのである。今、目にしている景色全てが記録の対象となった時、人は自らの体験を自分以外の人と共有することができる。その場にいなくてもその場を感じることができる。こうして人の記憶を担う道具となった時、ライカはできるだけ忠実にその世界観を記録することを使命とし、そこにありとあらゆる技術が注いだ。

感じた瞬間に少しでも早く反応できるように、そして見たままの世界を覗きこめるレンジファインダー、できるだけ光学的ロスの無いように必要最小限で構成されたレンズなどは、正に忠実に世界を切り取るために磨き続けられていた。

撮影者が“可能な限り感じた瞬間”に“ありのまま”の「日常を切りとる」ことができるように。
それは技術のひけらかしではなく、唯、目的を達成するために真摯に向き合ってきた技術者の思いがあるのみだった。
ライカのものづくりがその精神に則って今も脈々とつながっていることは、それらを手にして、使うことによって、いたって単純に腑に落ちた。

 

 

もっと体験したい。
ライカのつくったものをダイレクトに感じるため、カメラではなく今度は双眼鏡を手に街に出た。

 

 

 

その「日常を切りとる」道具は、私たちにその目で見ていたものとは明らかに異なるものを伝えてる。
なんとなく漫然と見えていたものが、その素材感、繊細な陰影の階調とともに目に飛び込む。
普段から見慣れた此処が、私たちにとって新しい景色となった。
ただ、双眼鏡で見ただけ。
ものごとをできるだけ忠実に伝えることが、こうも私たちにとって刺激的なことであることを再認識させてくれた。彼らは今でもまじめにものづくりをしている。ここには、装飾品ではない真の道具がある。
その高価さ故になかなか道具として扱いづらいというのもライカの道具を宝飾品のようにみてしまう一因ではある。
しかし、一旦それに触れ、その良さを肌身で感じると、それは飾り物ではないことは明白だ。そこには技術者の思いが存分に込められていた。

 

 

カメラと自転車。
一見、直接関係はないようではあるが、ものづくりに関わる者として、たいそう刺激的な「縁」となった。

 ビゴーレの自転車もいかに日常を感じてもらえるかを目的として励んできた。
どの自転車も「日常」を感じてもらうためにこれまでの競技車を作ってきたノウハウを活かして綿密に設計している。
これまでただ通っていた道が楽しくなるように、あたらしい発見ができるように。
それは、パッと見た目はわからないかもしれないが、初めて乗る人の多くはおどろきとして示してくれる。
使う道具として、使ったときの感覚を大切にしてもらうための自転車づくり。
良い道具は、人と一体化し、使っている感覚は薄れ、その行為のみが経験として人に残る。
ライカの道具もまさにそうであったように、私たちの自転車もそうあるように日々努めている。

日常には、面白いことで溢れている。
すこしでも、多くの人がそのたのしみを見つけ出せるように、
まじめにものづくり。

 

久しぶりにM3片手に身の回りにある新しい日常を探しに、ぶらり散歩にでも出てみようか。

 

 

ライカ京都店におじゃまして自転車の写真を撮った時に感じたことは「Whats Hot ?」でまとめています。

「ライカが京町家を選んだわけ」 

 

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