- 第1話 試してみないと
- 第2話 世界が実験場
- 第3話 思いを現実にするために
- 第4話 ロードのような乗り心地を求めて
ビゴーレのマウンテンバイクスタイルの定番であるベーシック・エフアールの誕生のはじまりは、1980年代半ば、今から約30年ほどさかのぼり、未だマウンテンバイクというものが世に生まれて間もない頃から始まります。
上の写真は1987年のビゴーレのクロモリ製マウンテンバイクです。
当時の主流であったUブレーキ(より高い制動性を出すために剛性の高いフレーム下部(チェーンステイ下)にブレーキを取付けていた)タイプ。
1985年からアメリカ西海岸を中心に盛り上がり始めていたマウンテンバイクがスポーツとしてまとまり出してきた時代です。この時代からビゴーレはマウンテンバイクに取り組んでいました。
当時、ゲーリー・フィッシャーが提唱した”MTB”は、海を越え、日本にも渡ってきていましたが、そのままのスタイルだったので日本人が日本のフィールドで乗るにはあまり適したものとは言い難いものがありました。そこでビゴーレのビルダーである片岡は、広大なアメリカの乗り物ではなく自分たちが自分たちのフィールドで楽しめるものをつくりだそうとしていました。これは、その頃の一台です。
最初は、試行錯誤の連続でした。
その頃はまだ日本ではマウンテンバイクについては殆ど知られていないため、片岡はまず本場アメリカ西海岸への視察へと旅立ちました。
これは、1987年の西海岸Longbeachでのサイクルショー行ったときにいろいろなお店を訪問した際の様子。 ロードレーサーも欠かさずチェックです。
もちろん、現地でライディングもしました。ロードレーサーも、マウンテンバイクも滞在中ぎりぎりまで走り込みました。
何よりも驚いたのは、アメリカ人は自分たちの家を出たらそのすぐ裏山でマウンテンバイクを楽しんでいたという事。普段の生活の中で普段着のまま当たり前のように自転車に乗る事をたのしんでいるのです。この体験が、日本ではまだ知れ渡っていない新しい自転車の楽しみに片岡を引込んでいきました。
帰国後、早速マウンテンバイクづくりに取りかかります。あの楽しみをこの日本でもなんとか実現したい。片岡を突き動かしているのは純粋にその思いだったようです。こうして日本で楽しめるマウンテンバイクづくりが始まります。
ただ、この頃は本場アメリカですらマウンテンバイクはまだまだ過渡期のもの。
当時のアウトドア用の自転車であるビーチクルーザーやクランカーと呼ばれるもので遊んでいたところから、本格的に山道で楽しめるものへと移行しようとしていたときです。故にフレームだけでなくその他のパーツそのものもまだまだ発展途上の状態でした。
何にしてもものは試し。とりあえず実際に走ってみなくては良いも悪いも分かりません。新しいものを作ってはそれを車に乗せて山へ走りにいきました。(京都の場合は、すぐ身の回りに山々があるのでフィールド探しには困らなかったようです。)
もちろん、一筋縄ではいきませんでした。まず苦労したのは当時のマウンテンバイクの主流であったUブレーキの問題。
Uブレーキは、山道走行のために制動力を上げるためにブレーキ本体の剛性を高めたものでしたが、フレームがブレーキ剛性に耐えうるよう、後輪用の取付け位置がチェーンステイ下(フレームの下部)にありましたが、悪路を走行していると、そこに泥がつまり問題となる事が分かりました。最初はカバーを取付けたりして対処していましたが、あまり効果無く、最終的にはブレーキ本体の剛性を保持することではなく取付け位置の方をロードと同じ位置(現在のブレーキ位置)に戻す事により最終的に解決しました。(しかしこの解決は新しいブレーキの誕生まで待つ事となります。)
このUブレーキ問題のみならず、スプロケット(後輪のギヤ部)の泥詰まり、走行中の高い負荷によるチェーンの切れ、変速機の限界、等々実際に走る事によって机上の知識、想像だけでなく実際に走るからこそ分かる問題を次々と発見できました。
さらに、国内のレースにも積極的に参加します。
ただ、この頃京都でマウンテンバイクイベントの参加者は十数人程度。イベント自体の参加者も100人程度でしたので、レースといっても今で言うOff会みたいなものでレースというより仲間が集い互いに様々な情報交流を交流を図るような場。この頃は皆、勝ち負けではなく肩の力を抜いて自然に楽しんでいました。
もちろん、パンクも含め、ライダー自らが直します。
会場では、こんな事もしてました。
こうした純粋に楽しむ事、また実際に試す事によって、片岡の経験値を上げるだけでなく自転車そのものの性能を向上させていきました。
そして、1988年、片岡にとっての二度目のLongbachのサイクルショーでこれまでのノウハウを盛込んだマウンテンバイクフレームを展示しました。(併せてロードフレームも展示しています。)そして、アメリカの無骨なそれとは異なる日本の異色フレームは、本場でも注目を浴びる事となったのです。
これは、当時のビゴーレのブースでの一場面です。
その際に展示されたマウンテンバイクフレーム。Uブレーキ時代の最終期のモデルです。フィレット仕上にこの独特なクラック塗装は当時GTとビゴーレしかやっておらずビゴーレの方がクラック加減が繊細でとても評判でした。
こうして、世界にもビゴーレを発信を始めることにより片岡の気持ちは、日本に留まる事無く、世界のフィールドでの飽くなき探求が始まりました。