サイクルスポーツを追い求めて。

上の写真は、1978年、国際見本市内で実施された国内初の第一回サイクルショーに出展の為に準備されたパーツ。まだまだ日本では知られていないサイクルスポーツを広めるべく、本場ヨーロッパから自転車やパーツを取り寄せていたが、どうも日本人に最適なものではない。そこで一念発起して自ら”VIGORE”ブランドとしてオリジナルスポーツバイクづくりに励みだした。
しかし、国内ではビゴーレの自転車に相応しい部品はまだ見当たらず、ヨーロッパのものを取付けることとなる。写真はそのひとつ。イタリアのカンパニョーロのレコードのクランクに”VIGORE”の刻印を入れた。ビゴーレの自転車に組付けるパーツのひとつひとつを吟味し、ただ取付けるのではなく、より完成度の高いものを目指そうという思いの現れであった。日本では漸く舗装された道も増え、自転車をスポーツとして楽しむ機運もでてきた頃である。

1975年にもなると道がだいぶ良くなり自転車愛好家たちはランドナーだけでなくレース競技のロードレーサーにも乗り始めるようになった。旅行用としてのランドナーは(荷物を運んで)安定した走りを求められるのに対し、ロードレーサーは、ものを運ぶという概念は無く純粋に自転車で”走る”ことを楽しむ道具として棲み分けされた。ビゴーレではそれまでにもロードレーサーを作製したが、これまでよりもロードレーサーを取扱う比重が増えてきた。

75年のビゴーレのロードレーサー

75年のビゴーレのロードレーサーランドナーとは異なり前輪を支持するフォークもだいぶ立ち、ホイールベース(前輪と後輪の間)が短く、よりダイレクトに地面に力が伝わるようになっている。

新しいロードレーサーのポジションを確認する二代目片岡。

新しいロードレーサーのポジションを確認する二代目片岡。
初代片岡が京都アマチュア競技連盟の理事長になったこともあり、この頃からビゴーレではトラック競技やロードレース向けの競技車両を提供する事が増えてきた。

時代と共に道が良くなるにつれ、日本でもスポーツとしての自転車が広がり始め、1978年に遂に日本での初めてのサイクルショーが大阪の国際見本市の中で行なわれることとなった。もちろん、ビゴーレも出展、自慢のロードのお披露目を行う。そしてそれは、塗装前の生地の状態での出品。制作技術に自信があるからこそ、その仕上を知ってもらいたかった。

この時に出品したのは、そのときのロードレーサーの典型的なスタイルであったラグ付きのロード車とピスト車(トラック競技用自転車)、そしてラグレスロードレーサー。当初一般的ではなかったラグレスは、現在のTIG溶接ではなくロウ付けで行われており、パイプのカット精度のみならず繊細で高度なロウ付け技術が必要であったため、敢えて挑戦するものは殆どいなかった。しかし、片岡は、既にその設計の自由度と熱による材料の変成度合いが低いラグレスに着目し職人と共に果敢に挑戦した。

第一回サイクルショーでのビゴーレブースでの二代目片岡。

第一回サイクルショーでのビゴーレブースでの二代目片岡。小さなブースに所狭しと置かれた自慢のフレームたちは、全て生地のままである。その顔に自作に対する大きな自信がうかがえる。

SUPER COMPETITION SPECIAL MODEL(ラグ付きロードフレーム)

その時の展示車、”SUPER COMPETITION SPECIAL MODEL”(ラグ付きロードフレーム)

SUPER COMPETITION SPECIAL MODE ラグ付きピストフレーム(トラック競技用)

“SUPER COMPETITION SPECIAL MODEL” ラグ付きピストフレーム(トラック競技用)

CRITERIUM(ラグレス ロードフレーム)
CRITERIUM(ラグレス ロードフレーム)

”CRITERIUM”(ラグレス ロードフレーム)
そのシルエットは、正にクロモリ・レーサーに通じる。このサイクルショーから15年後の1993年に誕生する、業界で異端とも呼ばれたクロモリ・レーサーの源となる革新の萌芽形が既にここから現れていた。

当時の最高パーツであったイタリアカンパニョロの部品を組付用として準備

自分の作った自転車フレームに自信が有るからこそ、そしてそれに相応しいパーツとして当時の最高パーツであったイタリアカンパニョロの部品を組付用として準備した。もちろん、そのままではなく自分たちの”VIGORE”により融合するよう部品にはオリジナルの刻印を施す。

本物の乗るたのしみを知っているからこそ形やスタイルに囚われること無く、その乗り味を探求すべく様々な制作法を試していた二代目片岡とビゴーレ。その後もその姿勢は深化し、そしてスピリットはビゴーレの大切なものづくり精神として3代目にも引継がれる事になる。